Share

第3話 水に沈む証拠

last update publish date: 2026-08-11 13:21:05

「僕が愛する灯里は、彼女のほうだ」

 正臣の言葉が、まだ耳に残っていた。

 莉乃はシーツを胸まで引き上げ、私を見た。

「奥様、怒らないでください。私、奥様に近づきたくて頑張っているんです」

「人の服を盗んで、人の香水をつけて、人の名前を呼ばれて喘ぐことが?」

 莉乃の顔が赤くなった。恥じたのではなく、怒っていた。

「盗むなんて人聞きが悪い。正臣様が、私だからいいとおっしゃったんです」

「私のものよ」

「奥様はお持ちのものを大事にしないから」

 本気で怒る私を、みっともないものでも見るような声だった。

「服も、香水も、部屋も、名前も。奥様が持っているより、私がもらったほうが、みんな幸せになれるでしょう?」

「奏汰まで奪うつもり?」

 正臣が私の前に立った。

「奪うんじゃない。奏汰には、彼女のほうがいい母親だ」

「あなたは一度でも病院についてきた?」

 声が低くなった。

「薬の量を覚えてる? 検査前に何を控えるか知ってる? 夜に痛がった時、どこを温めるか知ってる?」

 正臣は答えなかった。

「私なら、奏汰様を普通の子みたいにしてあげられます」

 莉乃が、胸元のシーツを直しながら言った。

「何も知らないなら黙りなさい」

「奥様は怖いです。奏汰様も、私のほうが好きだって」

 怒るだけでは、この二人に私が悪いことにされる。どうすれば、この異常さをわかってもらえる?

 その時、ポケットの中のスマートフォンに気づいた。

 そうだ。カメラを使えばいい。

 この二人はおかしい。ちゃんと見れば、誰かにわかってもらえるはずだ。

 震える指で、カメラアプリを立ち上げ、録画のボタンを押そうとした。

 親指が画面に触れた。

「何をしている! 撮ったのか!」

 正臣の声が飛んだ。

 押せたのか、わからない。

 でも私はスマートフォンを背中へ隠した。

「何も」

「見せろ」

「嫌よ」

 正臣が近づいてきた。

 私は一歩下がったが、鏡台に腰がぶつかった。

「灯里」

「来ないで」

「渡せ」

 正臣の手が伸びた。

 私はスマートフォンを胸に抱え込み、両腕で押さえた。

「触らないで」

「渡せ。灯里の裸を、外の人間に見せる気か」

「その女は灯里じゃない」

 正臣が私の手首をつかみ、胸元から引き剥がした。

「二度と言うな!」

 鏡台に背中がぶつかった。顔のすぐ前で、正臣が歯を食いしばっていた。乱れた前髪の下から、切れ長の目が私を睨んでいる。端正な唇が、怒りで歪んだ。

 私は残った腕でスマートフォンを抱え、身を折った。

 正臣の指が腕に食い込む。

「離して!」

 声が裏返った。

 莉乃がシーツの中で息を呑む。

「正臣さま、奥様が怖いです」

 正臣は莉乃へ目を向けた。その時だけ、食いしばっていた口元が緩んだ。

 それでも、私の腕を締めつける力は弱まらなかった。

「僕の灯里は、僕だけのものだ」

 正臣はスマートフォンを握る私の指を、一本ずつ剥がした。

 一本外されるたび、爪の根元に痛みが走った。

「やめて」

「離せ」

「いや。いやよ」

 最後の指が外れた。

 スマートフォンが、私の手から奪われた。

 私は正臣の腕にしがみついた。

「返して!」

 正臣は私を引きずるように寝室の奥へ歩いた。

 洗面台の前で、蛇口をひねる。

 白いボウルに水が落ちていく。

 その手には、私のスマートフォンが握られていた。

「やめて。お願い。それだけはやめて」

 私は正臣の腕をつかんだ。

「お願い、返して。もう誰にも見せないから。壊さないで」

 正臣が振り向いた。

「この家のことを、外へ出す必要はない」

 手首を振り払われた。

 私は洗面台の角に膝をぶつけた。

 ぼちゃん、と音がした。

 スマートフォンが、水の中で光っていた。

「いや!」

 私は水に手を突っ込んだ。

 冷たい水が袖の中へ入る。

 画面をつかもうとした。

 正臣が私の肩を押さえた。

「無駄だ」

 赤い点が一度だけ見えた。録画できていた。

 けれど、すぐに画面が消えた。録画は残らない。

 今見たことも、聞いたことも、証明できなくなった。

 莉乃が寝室のほうで、小さく笑った。

 それでも、ここにはいられない。

「出ていく」

 言った瞬間、正臣が笑った。

「どこへ?」

「この汚された部屋から。見るだけで吐き気がするあなたから。」

「好きにしろ」

 正臣は濡れたスマートフォンを拾い上げ、床へ叩きつけた。

 画面が砕け、破片が足元まで飛んできた。

 思わず手を伸ばした私を見て、正臣が薄く笑った。

「ただし、奏汰は置いていけ」

 伸ばした手が止まった。

「奏汰は連れていく。あなたのところには置いていけない」

  正臣の笑みが消えた。

「奏汰は僕と灯里の子だ。灯里の子を僕のそばから奪わせない!」

 この人、いったい何を言っているの?

 私をあれほど傷つけておいて。

 私との子を、奪わせたくない?

 まさか……奏汰に何かするんじゃ。

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 夫がメイドを私の名前で抱いた――すべてを奪われた元・天才医療研究者は、冷徹社長に溺愛される   第34話 僕に罰されるのが、そんなに嬉しい?

     発表会場で、燎と柊吾が大勢の前でにらみ合っていた、その頃。  正臣が向かったのは、ホテルの出口ではなかった。  莉乃は正臣に腰を抱かれたまま、最上階行きのエレベーターへ乗った。  廊下の奥にある部屋へ入る。  扉が閉まり、鍵がかかった。  正臣の手が離れる。  莉乃が振り返るより早く、背中が扉へ押しつけられた。 「正臣さま……」  顎をつかまれ、顔を上げさせられる。  正臣の目に、会場で見せた優しさはなかった。 「僕の前で、あの男を選んだ」  莉乃は否定しなかった。  正臣が見ているのは、自分ではない。  鷺宮燎の隣へ歩いていった灯里だ。  そう分かった途端、下腹に甘い熱が集まった。 「ごめんなさい、正臣さま」  灯里の声を真似て、莉乃は謝った。  正臣の親指が、唇を強く押す。 「謝れば、許されると思っているのか」  莉乃は正臣を見上げた。  怒っている。  自分だけを見て、激しく怒っている。  それがたまらなく嬉しかった。 「僕を捨てた罰を与える」  灯里として、罰してもらえる。  その言葉に、莉乃の全身が甘く痺れた。  脚のあいだが甘く疼き、熱い蜜が滲んだ。 「はい。罰してください、正臣さま」  莉乃は正臣の手首へ自分から触れた。 「私が悪いんです。あなたの前で、鷺宮さんを選んだから」  正臣の目が細くなった。  莉乃が演じているのは、壇上で燎の隣へ歩いた灯里だ。正臣が怒っている相手も、目の前にいる莉乃ではない。  それでよかった。  今、正臣の頭の中にいる女を、自分の身体で独占できる。  莉乃は正臣のネクタイへ手をかけた。結び目をゆるめ、シャツのボタンを一つ外す。 「私を、正臣さまの望む灯里にしてください」  正臣の手を取り、自分の腰へ置いた。  ためらいはなかった。ここまで灯里の服を着て、声を真似て、妻の席へ座るために来たのだ。 「もう一度言って」 「鷺宮さんを選んで、ごめんなさい」  言い終わる前に、唇を塞がれた。  後頭部をつかまれ、扉へ押しつけられる。強く噛まれた唇が痛んだ。莉乃は逃げず、正臣の首へ両腕を回した。 「もっと……怒ってください」  正臣の指が、紺のドレスの肩紐へかかる。 「この服も、あの男のために着たのか」 「違います。あなたに選んでもらうためで

  • 夫がメイドを私の名前で抱いた――すべてを奪われた元・天才医療研究者は、冷徹社長に溺愛される   第33話 九年前に、何があったの

    「俺に同意を求めるな」 燎の声は低かった。 いつもなら、何を言われても人を食ったように笑う。 けれど今は、口元に笑みがなかった。 会場のざわめきが、また止まった。 壇上の柊吾は、マイクを持ったまま笑った。「自分以外が最善だと認めるのは、難しいか」「勘違いするな。おまえが最善だったことはない」 燎の言葉を気にした様子もなく、柊吾が壇上を降りる。 記者たちが道を空けた。 燎は私の腰から手を離さなかった。 柊吾が近づくほど、その指に力がこもる。 燎は私を柊吾に近づけたくないのだろう。 だけど、私には彼に聞きたいことがあった。 莉乃が柊吾へ送った合図。 その直後に発表された、正臣の後任。 偶然とは思えなかった。「どうして、あなたが正臣の後任なの」 私が聞くと、柊吾の足が止まった。「それは、久条志津子に聞くべきだ」「あなたは断らなかった」「断る理由がないからね」「父の会社を、何に使うつもり?」「君が捨てた会社だろう」 声が低くなった。「捨ててない。奪われたの」 柊吾の眉が、わずかに上がった。「知りたい?」「ええ。それに、あなたが莉乃と何を企んでいるのかも」 柊吾の視線が、私へ向いた。「燎は、僕がSENOVAを追われた理由まで話した?」「何も聞いていないわ」「そうだろうね。昔から、自分に都合の悪いことは話さない」 燎の眉間に、深い皺が寄った。 挑発だと分かっている。 それでも、私だけ何も知らないことが気になった。 燎の腕が、私を胸元へ引き寄せた。 背中が燎の胸に触れる。 一歩出ようとした私を、腰に回った手が引き戻した。 邪魔しないで、と言いたかった。 けれど、その手を振りほどく気にもなれなかった。 柊吾の視線が、私の腰にある燎の手へ落ちた。「莉乃は自分で選んだ。欲しいものを手に入れるためにね」「質問に答えていないわ」「久条正臣は、失った妻を取り戻したい。相良莉乃は、その妻になりたい。利害が一致しただけだ」 正臣が取り戻したいのは、私ではない。 逆らわず、家を出ず、いつも笑って待っている妻だ。 莉乃は、その通りに振る舞っている。 八年一緒に暮らしたことも、奏汰を産んで育てたことも、正臣には「失った妻」の一言でしかないのだろうか。 分かっていたはずなのに、柊吾に「利害」と呼ばれると腹

  • 夫がメイドを私の名前で抱いた――すべてを奪われた元・天才医療研究者は、冷徹社長に溺愛される   第32話 正臣さまの妻は、私です

    「CARE-LINKも、私が完成させます」  莉乃の声が、静まり返った会場に響いた。  正臣の灯里は自分だと言っただけでは、もう足りないらしい。  私の仕事まで、自分のものにすると宣言した。  正臣が振り返る。  私と同じ紺のドレス。同じ位置でまとめた髪。同じ耳飾り。  正臣の目が、一つずつ確かめるように莉乃の姿をたどった。  最後に、顔を見る。 「灯里」  迷いのない声だった。 「はい」  莉乃も迷わず答えた。  正臣の手が、莉乃へ伸びる。  莉乃は赤い絨毯を進み、その手を取った。指を絡め、私へ勝ち誇った笑みを向ける。 「正臣」  義母の声が飛んだ。 「その女を連れて、どこへ行くつもりです」 「帰ります」 「あなたに戻る席はありません」  正臣は母親を見なかった。 「代表を解任されることは、どうでもいいと言ったはずです」  莉乃の手を強く引き寄せる。 「僕には灯里がいる」  胸元へ抱かれ、莉乃がうっとりと目を細めた。  燎の腕が、私を背中へかばうように動いた。  けれど、正臣はもう私を見ていなかった。 「正臣さま」  莉乃が甘く呼ぶ。 「私が、おそばにいます」 「分かっているよ」  正臣は莉乃の頬に触れた。  私に傷をつけた手で、私と同じ顔を撫でている。  気味が悪かった。  それでも、目をそらさなかった。  これが正臣の選んだ灯里だ。  自分に逆らわず、いつでも優しく笑い、何をされても離れない女。 「行こう、灯里」  正臣が莉乃の腰を抱いた。  報道陣のカメラが、一斉に二人へ向く。 「久条前代表、その女性を奥様として扱うということですか」 「離婚は成立しているのですか」 「相良莉乃さんとの関係を説明してください」  正臣は答えなかった。  莉乃だけが振り返った。 「正臣さまの妻は、私です」  莉乃は報道陣へ、堂々と微笑んだ。  記者たちが顔を見合わせ、低いざわめきが広がった。  正臣が莉乃の腰を抱き直した。  莉乃が見上げると、正臣も幸せそうに笑った。  私の名前を使い、私と同じ顔で、二人は本当の夫婦のように寄り添っている。  幸せそうであればあるほど、歪んだ絵を見ているようで、気持ちが悪かった。  二人が会場を出ていく。  扉へ向かう途中、莉乃が一度だけ振

  • 夫がメイドを私の名前で抱いた――すべてを奪われた元・天才医療研究者は、冷徹社長に溺愛される   第31話 会社はもらいません

     ざわめきが止まる。 「鷺宮さん」  義母の声が飛んだ。 「久条グループの創立記念式典で、勝手にご自分の発表をなさるなんて。相変わらず無礼ね」  燎はマイクを持ったまま、義母を見た。 「本人の返事も聞かず、灯里を後継者にすると発表したのは、あなたが先だ」 「久条家のことです。あなたには関係ありません」 「灯里のことなら、関係ある」  会場が息を呑んだ。  義母の目が、わずかに細くなる。  正臣さえ口をつぐむ目を、燎は正面から見返した。  私のことなら関係がある。  三百人の前で、迷いもなく言い切った。  勝手な人だと思った。  それなのに、うれしかった。  久条家の妻としてでも、桐谷の娘としてでもない。燎は、私が作ったものを私の名前で世に出そうとしている。  それをうれしいと思う自分まで、見抜かれていそうで悔しかった。  こんな場所で、私の人生を勝手に取り合わないで。  燎はまだマイクを下ろさない。  いったい、何を言うつもりなの?  会場中の視線が、燎へ集まる。 「新しい医療データ会社を作る」  燎が私を見た。 「その会社を、君に贈る」  一拍遅れて、会場中から声が上がった。 「SENOVAが、桐谷博士のために新会社を?」 「会社を一つ、贈るということですか」 「鷺宮社長、桐谷博士とはどういうご関係ですか」  報道陣が一斉にマイクを向ける。  一瞬、言葉が出なかった。  後ろの席で椅子が鳴り、久条の役員たちが顔を見合わせた。さっきまで莉乃を見ていたカメラが、今はすべて私へ向いている。  私の仕事に、会社一つを賭ける。  しかも久条の創立記念式典で、正臣と義母の目の前で。  この男は、人の人生を変える話を、明日の予定のように言う。  嬉しくないはずがない。  正臣に道楽と呼ばれ、莉乃に名前まで奪われた仕事を、燎は会社にする価値があると言ってくれた。  八年間、聞きたかった。  私の仕事には価値がある。続けていい。そう言ってほしかった。  でも、喜んだまま受け取るわけにはいかない。  義母と燎は違う。燎は私の仕事を認めている。それでも、会社をもらって社長にしてもらうだけでは、また誰かに人生を決めてもらうことになる。  会社を作ったことなんてない。  今の私にできるのかも、正直分からな

  • 夫がメイドを私の名前で抱いた――すべてを奪われた元・天才医療研究者は、冷徹社長に溺愛される   第30話 僕を愛していなかったと、ここで言えるのか

    「君は、どうしたい」  燎の問いが、静まり返った会場に残った。  正臣の手は、まだ私へ差し出されている。 「灯里」  正臣が私の名を呼んだ。 「僕を愛していなかったと、ここで言えるのか」  卑怯だった。  会社でも、特許でもない。  大勢の前で、私たちの八年間が愛だったのか、嘘だったのか、答えろと迫っている。  こんな場所で、愛しているかと迫るなんておかしい。  でも答えなければ、正臣は私の沈黙まで「愛している」に変える。  愛していなかったとは、言えなかった。  正臣を愛していた。  結婚式の日、彼の手を取った時は、この人となら何があっても生きていけると思った。  奏汰が生まれた夜、正臣は泣きながら私を抱きしめた。  初めて三人で朝を迎えた時、この幸せが一生続くと信じた。  嘘にはできない。 「私、あなたを愛していた」  会場がざわめいた。  燎を見る者もいた。  私も燎を見た。  彼の顎が固くなり、下ろした手が握られている。  聞きたくないはずなのに、止めなかった。  私が正臣との八年間を、自分の言葉で終わらせるまで待っている。  だから、私も目をそらさなかった。  正臣の目が大きく開いた。  すぐに、嬉しそうな笑みが浮かぶ。 「分かっている。だから、おいで」  正臣が私の手首をつかんだ。  そのまま引き寄せられ、甘い香りが近づく。 「今なら、まだ許せる」  耳元へ落ちた声も、昔と同じだった。  同じ体温。  同じ香り。  同じ声。  それが悲しくて、腹が立った。  八年前なら、迷わず取った。  ほんの少し前まで、奏汰と会社を返すと言われれば、戻るしかないと思っていた。  けれど、その手は私のスマートフォンを壊した。  私の頬へ皿を投げた。  逃げようとした私をつかみ、部屋へ閉じ込めた。 「愛していたの」  過去の言葉として、もう一度言った。  私は正臣の指を一本ずつ外した。  正臣の笑みが消えた。 「仕事を奪われる前のあなたを。私の話を聞いてくれた頃のあなたを。私を妻ではなく、灯里として抱きしめてくれたあなたを愛していた」 「僕は変わっていない」 「変わったわ」  声が震えた。 「それとも、最初から私が従っていたから、優しかっただけなの?」  正臣は、

  • 夫がメイドを私の名前で抱いた――すべてを奪われた元・天才医療研究者は、冷徹社長に溺愛される   第29話 君は、どうしたい

    「本日付で、久条正臣を代表取締役から解任します」  一瞬、誰も声を出さなかった。  次の瞬間、会場がわっと爆発した。  椅子を引く音。  誰かが落としたグラスの割れる音。  役員たちが一斉に立ち上がり、報道陣が壇上へ押し寄せる。 「解任とは、取締役会で決まったのですか」 「後任は誰です」  質問が飛び交い、カメラの光が何度も正臣の顔を照らした。  正臣は動かなかった。  口元にはまだ微笑みが残っているのに、こめかみが強く引きつっていた。 「母さん、何を言っている」  正臣の声から、初めて余裕が消えた。  義母は息子を見なかった。 「必要な票は、すでに集めました」 「そんなものは無効だ」  正臣が壇上へ一歩近づいた。 「僕を下ろして、誰を置くつもりです」 「後任には、久条灯里さんを推薦します」 「灯里を会社に立たせるな」  正臣の声が鋭くなった。 「灯里は僕の妻だ。久条家にいればいい」 「その灯里さんから会社と研究を取り上げたのは、あなたでしょう」 「違う。僕が大きくしてやった」 「そして、才能のないまがい物に渡そうとした」  莉乃の顔が、大きく歪んだ。  正臣が、柊吾の隣にいる莉乃を指した。 「なんでわからないんだ! 莉乃も灯里だ!」  会場のざわめきが、一瞬で消えた。  正臣のそばにいた役員が、一歩下がる。  報道陣も質問を止め、互いの顔を見た。  誰一人、正臣の言葉にうなずかなかった。  おかしいのは、私ではない。  今度は、三百人がそれを見ていた。  同じ紺色のドレスを着た莉乃へ、何台ものカメラが向く。  莉乃はすぐに表情を整え、私と同じ角度で顎を上げた。  義母が初めて正臣を見た。 「目の前に灯里さんがいるでしょう」 「どちらも灯里だ」  義母の口元が、わずかに歪んだ。 「だから、あなたを下ろすのです」  会場が、もう一度大きくどよめいた。  三百人近い招待客が、一斉に私を見る。  白い光が目へ刺さる。 「桐谷灯里博士ですか?」 「あの桐谷氏の娘さん?」 「CARE-LINKの開発者ですか?」  報道陣の声が重なった。  本当に、義母は発表した。  久条家を継げば、父の会社も、私の仕事も取り戻せる。  正臣に親権を争わせず、奏汰を私のそばで育てられる。  

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status